硝子の指輪



 ヒューゴは、自身の左手の中指に鎮座する、濁ってはいれど、赤い光を灯す指輪を見つめていた。執務室の開いた窓からは、透き通るような夕陽の橙色が射している。骨ばった指をそちらにかざすと、指輪はちろちろと踊るような光を落とす。
 一度だけ薄い唇を開き、躊躇ったのち、吐息をひとつ零すと、彼はまた机に向き直った。もう仕事は既に終わっているのだろう、山積された書簡には、彼の流麗な名前が記されている。本来なら部下が取りに来るはずだが、午後になった時点で、すべての部下を家に帰した。今、この法部が統括する棟には、ヒューゴと警備兵しかいない。
 今年もそんな時期なんですねえ、と、直属の部下が口にしたことを思い出す。自分が法務長官の座に就いたときから、部下に配属された当時若干二十に過ぎなかった若者も、今や五十の声を聞こうとする年だ。付き合いが長くなるだろうことは予測できたからこそ、打ち明けた話を、部下は柔らかい目で受け入れた。
 だから今日、ヒューゴはただひとり、この場に座り続けている。

  *

「ヒュー、お前毎日勉強してんのな。飽きねえの?」
 不意に上から降ってきた声に、ヒューゴはうんざりとした顔で、木蔭の隙間から垣間見えるくりくりとした緑色の目を見据えた。
「お前こそ、少しは勉強したらどうなんだ」
 へへ、と笑い飛ばす明るい音が、葉の中でくるりとまわり、かさりという軽い音と共に少年がヒューゴの隣に着地する。パッと汗をぬぐい、熱いなぁ、と唸る。煌めくように明るい赤毛を高く結わき、頬を染めてこちらに身を乗り出す姿は、幼さも相俟って非常に愛らしい。ヒューゴの家の使用人たちが、坊ちゃんの周りをうろつく浮浪児を、なんだかんだ世話をしてしまう気持ちもわかる。
 だがヒューゴにそんなことは関係ない。そもそもトリデンカの屋敷は、金の亡者のごとく成りあがった商売人たちの家だ。値打ちにもならなければ商売人になる気もない浮浪児が、うろうろするにはふさわしくない。それに、認めるのは甚だ癪だが、この紅顔の美少年を金に目がない父が見つけたら、即刻男娼の館に売り込むに決まっているのだ。そんなの、いくら鬱陶しく思っていたとしても、少なからず友人として認めてしまったヒューゴが、見逃せるはずもない。
「相変わらず文字ってやつは読みにくいよなぁ。絵の方がよっぽどわかると思わねえ?」
 明るく問いかける声に、じとりと彼を見ると、少年はきょとんと目を見開いた。
「どうしたんだよ、怖い顔して」
「お前、もうこの家の近くに来るの、やめておけ」
 途端に少年の眉間に、ぎゅっと皺が寄った。子どもの顔に無理に作り出されたしかめっ面は、腐りかけてしぼんだ果実そのものだ。
「それ、ヒューが決めることじゃないだろ。俺は来たいからここに来てんの。お前んちの使用人たち、俺のこと可愛がってくれるしな。へへへ、こないだなんてお湯に入れてもらったんだぜ? お前んちほんと金持ちだよな!」
 さすがのヒューゴも絶句した。風呂はかなりの贅沢品だ、貧民や浮浪児は当然のこと、一般の町民だって滅多に入れないし、備え付けの風呂場を持つ屋敷なんてこの街ではここくらいのものだ。使用人たちも重々承知しており、家主である父の指示で、週に一二度入れたら儲けものだというのに。
「……それいつの話だよ」
「おととい。まだいい香りすんだろ? 使用人の綺麗な姉ちゃんが身体洗ってくれたんだぜ」
 ふんふんと嬉しそうに鼻の下を伸ばす少年の頭を、力強くはたく。とはいえ、ヒューゴの華奢な腕の攻撃なんて、彼はまるで気にもかけていないのだが。なんだよー拗ねるなよな、なんて能天気な言葉を放ちつつ、彼はヒューゴの膝に置かれた書簡に目を落とした。
「何の勉強してたんだ?」
「法律書。父さんに抜け穴の勉強になるからって言われて押し付けられた」
 ふてくされた声になってしまったと気が付いたのは、こちらをじっと見つめる瞳のせいだ。こてん、と首を傾け、少年は赤い唇を吊り上げて笑う。
「お前、父親のこと、嫌いなの?」
 応えに躓く。
 ただきゅっと唇を引き結び、書簡に目を落とすヒューゴにしなだれかかるようにして、彼はヒューゴの膝の上に頭を乗せた。むわり、と上る汗の香りと、きらきら光る瞳にまっすぐ見上げられ、ため息を吐く。
「あのなぁ……」
「俺もお前の親父は嫌いだな」
 息を飲んだ。彼は柔らかい頬を緩めて、心の底から安堵した顔で、ヒューゴの膝に頭を乗せて、ただ、笑った。
「嫌いだよ」
「……会った、のか」
 引きつった音が、声のふりをして喉から漏れた。うんざりするような暑さのせいで、汗が頬を伝って落ちた。それは少年の唇に触れて、中に吸い込まれていった。
「しょっぱい」
 べ、と舌を出して少年は、目を細めて笑った。ヒューゴが彼の頬に手を伸ばすと、微かに震え、何だよ、と優しい声で尋ねてきた。それだけでわかってしまった。彼が、ヒューゴの家の風呂に入れた、簡単な理由。
「僕は、どうすればいい」
 恐れを含んだ声だと気が付いたのだろうか、彼は呆れたと声を上げた。ヒューゴの手に自分の手を重ねて、な、と問いかける。
「お前が気にすることじゃない。そんなくだらない理由でお前の同情を引きたいわけじゃねえよ、わかるだろ?」
「わからない」
「わかってるくせに。なあ、俺の夢を教えてやるよ」
「大金持ちだろ」
 あはは、と明るい笑い声を弾けさせて、少年は飛び起きた。ごつん、と頭をぶつけ、唸るヒューゴをおかしそうに指さす。きっと睨みつけるヒューゴを無視して、少年は軽々と立ち上がった。
 髪を結わいていた組紐を指でするりと外し、腰紐にひっかけていた短剣で、勢いよく髪を切り捨てる。あまりの早業に、ヒューゴは言葉もなく見つめていることしかできなかった。さらさらと風に乗って、長い髪がヒューゴの顔面にぶつかり、絡み付く。腕で拭い去ると、しらっとした顔で少年はこちらを見ていた。
「俺は海賊になるんだ。ありとあらゆるものを奪い取って、金銀財宝たんまり稼いで、世界の果てを目指すんだ」
 緑の瞳の奥は、ヒューゴのことなどまるで見てはいなかった。遠い遥か彼方を目指すその先で、彼はヒューゴを振り返ってすらいない。振り向くことすらない。心底、お前のことなんてどうでもいいと、言われているとしか思えなかった。
「そのついでに、お前の親父の商売も滅茶苦茶にしてやるよ、ヒュー」
 に、と、不意に少年の目が、適確にこちらを見据えた。ぎらり、と漏れ出すような色濃い瞳が、ヒューゴの心に突き刺さる。それは、敵意にも、憎悪にも、悪意にも、見えた。
 そしてそれ以上に、
「ヒュー、俺はお前のこと大好きだ。お前、生き残りたいならさ、このまま勉強続けて、偉い役人さんになってくれよ。商人なんかにならずにさ」
「どういう、意味だよ」
「お前が商人なんかになったら、お前のこと殺すって言ってるんだ」
 少年はきらきらとした笑顔で言い放つ。
 ざぁ、と風が音を立てていた。ギラギラと照りつける暑い陽射しを遮るように、葉がさらさらと揺れている。屋敷からは程遠く、窓辺から使用人が見ていることは知っていた。
「なあ、ヒュー。役人になってくれよ、俺、お前のこと、殺したくない」
 くる、と短剣を腰紐にしまいこみ、少年はすとん、とその場に座り込んだ。細められた目に宿る、優しさに似た憎悪は、ヒューゴの心に刻み込まれて血を流す。
「でも今のままだと殺しちゃうから、俺、行くわ」
「行くってどこに」
「世界の果てを目指しに」
 に、と赤い唇を吊り上げて、少年は笑う。彼の腕を掴もうとしたヒューゴの腕を掬い上げ、ぐいと引き寄せると、鼻先のこすれ合う距離で、少年はとろりと目を細めた。その美しいほどの緑色に、ヒューゴは言葉を失う。
「ヒュー。俺はお前のこと好きだよ。だから殺さないでいてやる」
 まるで愛の告白だ。だけど幼いヒューゴにすら、色めいたものではないことはわかった。
「でも、次に会うとき、お前がお前の親父みたいになってたら、殺す。言ってる意味、わかるよな」
 額から流れる汗を、彼の手がぬぐう。ヒューゴは動くこともできずに、彼の一挙一動を見ていた。見ていることしかできなかった。
「次に会うとき、お前が役人になってたら、お前の手で俺を裁くんだ。できるよな、ヒュー?」
 頬をなぞる指よりも、吸い込まれるような緑色の目だけを、見ていた。
 こくりと言葉もなく頷く。少年は満足げに笑い、ヒューゴを押しのけて立ち上がる。茫然とただ彼を見ているだけのヒューゴの前で、彼はあちこち自身の身を探ると、やがて何かをヒューゴにぽいっと放り投げた。慌てて掴むそれは、彼の髪色によく似た、赤い硝子の指輪だ。浮浪児の彼が持つには、あまりにも高価な代物。
 もうひとつをどこから取り出して、少年は、ヒューゴの目の前で自身の親指に押し込める。親指でもなければ、零れ落ちそうなほど、大きな指輪だった。
「約束な」
 ぱっと、ヒューゴの前で、彼は大きく手を広げる。やはり不恰好な指先だった。短くなってしまった髪が、硝子に透けて、より赤さを増して映る。
 美しい少年だった。嫌になるほど。
「これ」
 僕がもらってもいいのか、という言葉は飲みこまれた。彼が背を向けたから。
「なあ!」
「じゃあな、ヒュー」
 呼び止められないことは知っていた。この少年が絶対に振り返らないことは、すぐに知れた。
「僕は」
 大きくはない背中が遠ざかる。ふと落ちた視線の先に、赤い指輪が転がっていた。震える手でそれに指をかけると、ころりと光る。握りしめて、彼のように親指を押し込める。笑ってしまうほど、大きくて、子どもの指には、悲しくなるほど不釣り合いだった。
「お前の名前さえ、知らないんだぞ――!」
 嗚咽が漏れた。初めて、ひとを心の底から憎いと思った。

  *

「不用心だな、法務長官殿」
 扉はノックもされずに、突然開かれた。はっと顔を上げた先に、赤い髪の大男は立っている。扉についた右手の親指には、ぴったりとはまって取れないだろう、硝子の指輪が収まっていた。宝石のように綺麗な緑色の瞳を細めて、赤い髭をこしらえた男は、笑った。
「約束守っちまうなんて、殺せねーじゃんか、ヒュー」

  • 最終更新:2017-02-01 16:01:57

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